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by 廻 由美子


生誕150年を記念した「新しい耳」シェーンベルク・シリーズ。

その最後を飾るのはこちら!

2024年12月1日(日):15:30開演(15:00開場)

中川賢一(ピアノ)x石上真由子(ヴァイオリン)xマルモ・ササキ(チェロ)

〜洪水の前に〜

R.ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」(1859)より「前奏曲と愛の死」ピアノ・ソロ

C.ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」(1894) ピアノ・ソロ

A.シェーンベルク:「浄夜」(1899)ピアノ・トリオ版

中川賢一(pf)、石上真由子(vn)、マルモ・ササキ(vc)

この豪華メンバーについてはこちらをご覧ください。

今日は中川賢一氏がピアノ・ソロで演奏するドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」についてです。

ステファヌ・マラルメ(1842〜1898)の詩、「牧神の午後」に霊感を得たドビュッシーが、1892年から1894年にかけて作曲たのがこの「牧神の午後への前奏曲」です。

マラルメの詩の大意は、

午後のまどろみから覚めた牧神が、笛を吹こうとしたとき、水浴びをするニンフたちに気づく。

眠りについた彼女らを抱え、薔薇の茂みへと行くが、スルリと逃げられてしまう。牧神は欲望さめやらず、美の女神を抱くことを夢想する。


大変大雑把に言えばこのようなものですが、フランス詩などちゃんとは知らない私にも、マラルメの詩は紡ぎ出す言葉は意味の背後にあるものが立ち上がってくるようで、意味などわからなくても、音楽を聴いているように朗読を聴けてしまいます。

ドビュッシーのような音楽家は、詩を手で触ることができたのかもしれません。

「牧神の午後」を作曲したときは、まるでマラルメの詩に触れ、感触を確かめ、楽しみ、戯れ、香りを嗅ぎ、五感を研ぎ澄まして、音の世界を作っていったのでしょうか。

それほど皮膚感覚のある音楽で、ゾワゾワ来るのです。

アートの連鎖はバレエ・リュスのニジンスキーに繋がっていき、ニジンスキーはドビュッシーの音楽によるバレエ「牧神の午後」を振り付けます。

しかし、ニジンスキー創作によるこのバレエは、ラストシーンがあまりに「性的絶頂を露骨に表現している」ということで大スキャンダルになってしまいました。

なんでもニジンスキーの「あるポーズ」がそのものズバリであった、ということらしいです。

実は、ドビュッシーの音楽は、柔らかな色彩感覚で騙されますが、「あるポーズ」どころではない、「目眩く絶頂感」が表現されているのですが、音楽は目に見えないですし、非難はすべてニジンスキーに行った、というわけですね。

ドビュッシーの音楽はもっとまとわりついてきて、頭の芯が痺れるような官能があるので、全てをなげうってこの世界に行きたくなります。

そこにはなんという愛と自由があることでしょう。

「あらゆる芸術は音楽に嫉妬する」と言われるわけです。

それはともかく、さあ、この作品を中川賢一氏がピアノ一台でどう演奏するでしょうか

なんと言っても中川賢一氏はオーケストラが丸ごと身体に入っているようなピアニストです。

だからこそ今回のようなワーグナー、そしてドビュッシーの管弦楽曲ピアノ版の演奏が可能なのです。

その表現力は圧倒的で奥深く、幾層にもなって渦巻いています。

シェーンベルクも、1918年に立ち上げた「私的演奏会」で、お弟子さんのベンノ・ザックスという人が室内楽版に編曲したこの曲を上演したとのことです。

シェーンベルク・シリーズのラストを飾るコンサート、ぜひお聴き逃しなく!


2024年11月1日日・記

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